#1 記憶の谷へ続く道
東口を出て靖国通りを渡れば、1丁目の角を陣取るドン・キホーテからこっち、区役所周辺をのぞいては、この街には信号もない。窪みだらけのアスファルトに散乱する玉葱の皮、アイスの棒、割れた注射シリンジ、どう見ても血のシミのついた片方だけの靴下。そういったものの堆積を平然と踏み越えて歩く人々の姿におののいて、高級外車のドライバーは降りてきたばかりの首都高へそそくさと引き返していく。
側溝に滑落せずに生きてゆけることが約束されている者などいないのです。今はたまたま、このぬかるみに溺れる誰かの頭を踏んで歩いているだけで。
自分のために平気で誰かを犠牲にすることを教えられて育ちましたね。道ばたから助けを求める人の手を振り払うばかりか、自業自得と大声で罵倒して、それでもまだ足りないと思ってきました。なのに自分の欲求だけは最優先に可愛がり、不相応な夢を是が非でも実現しようと躍起になりました。欲しいものがあるたびに、必要以上に派手に水溜まりを蹴って、他人に泥を浴びせて歩いてきました。ずっと。
でも心配いりません。この街は、溺れる人間を足蹴にした者をこそよろこんで受け容れてきました。
鬼さんこちら、滴り落ちる音の鳴るほうへ。どろりとした温かい水の伝う壁を頼りに谷を下りてゆけば、なつかしい暗闇に阻まれる。その赤くべたついた懐が奇妙に居心地良いのは、きっといつか居た胎内の景色がこんなだったからだ。光のなかへ産まれ出るのと引き換えにそこに置いてきた前世の記憶は、思えばそのときからずっと、この靴底に絡みつく羊水を通じてだれかの思い出と繋がっていた。それはときどきアイスの棒の形をしていた。それはときどき腐って酸っぱい匂いを放っていた。


