相方はどこから来たのか ― 呼称にひそむ心理をさぐる



広辞苑で相方という言葉を引いてみると、「①相手。相手役。漫才でーーをつとめる」とある。
そこから、パートナー、2人組の意味に派生するのは理解できるとしても、なぜネトゲ内恋人の意味にまで転じたのかについては、わかっていない。
相方という言葉には元来、色気がまったくないのだ。
この質素な呼称が、なぜ秘められた濃密な世界の関係性を表す言葉として使われるようになったのか。そしてなぜ定着したのか。

社会言語学のとびらをたたく

特定の界隈や仲間うちで使われることばは、「集団語」と呼ばれ、社会言語学という領域で研究されている。
そのことを最近知った学長はピッコーン💡!
「ならば相方も集団語にちがいねえ!」ってなってしまい、その日のうちに近くの中央図書館に関連書籍がないか調べて3冊予約し、週末には電車に乗って調査におもむいた。


移動中、わたしは自作の 相方文化歴史年表 (前史編)をおさらいする。
1997年に生まれたネトゲの始祖、ウルティマオンラインでは、すでにゲーム内の恋人関係は相方と呼ばれていた。
続くFFⅪ、ラグナロクオンライン、FFⅩⅣ、とその伝統は受け継がれ、じつに25年以上もの間、相方という言葉はネトゲユーザーに認知され続けてきた。
恋や愛の匂いをともなわない、いっそ無機質な相方という言葉が、にもかかわらず恋愛関係を指す言葉として使われ続けたのは、人々がそれをかえって便利だ、と感じたからではないのか。
あるいは、相方という言葉が、自分たちの関係性を、実はよく言い表していると多くの人が思ったからではないのか。
相方なる集団語の利便性とは何だろう?
四半世紀もの間、恋人たちがこの呼称に託しつづけてきた思いとは?

使用者集団の表示機能・アイデンティティーとしての「相方」


10年以上もの間ひたすら相方募集日誌、相方おのろけ日誌を読み続けた私はいささか頭がいかれてはおるが、そのデータ集積力、分析力には定評がある。おもにわたし自身から。
2013年に冒険日誌が実装されて後、広場には相方と付き合ったの別れたの、結婚したの、浮気されたのというセキララを恥ずかしげもなく綴りまくるいわゆる「相方日誌」が溢れた。
相方日誌は数年間隆盛を誇ったが、SNSの拡大、DQX運営による検閲の強化によって現在ではほぼ消滅している。

当時の相方日誌に特徴的だった現象の一つとして、「相方勢は、他の相方勢と友だちになり、日誌にコメントし合って話題を共有することを楽しんでいた」ことが挙げられる。
相方日誌フレンドの募集もたくさんあった。
バトルなどはせず、お互いの彼氏自慢にコメし合うだけのフレンドという新しいつながりが生まれたのである。
このときかれらは、「相方」という集団語が通じるか通じないかで、他人と自分の同質性を量っていたのではないだろうか。
いうなれば、集団語を用いて、他人が自分を排斥せず受容してくれるかどうかを識別していたのではないだろうか。

言語社会学の研究によると、集団語は集団の表示機能を持ち、所属者のアイデンティティーを示すという。
たとえ相方と別れても、こうしたコミュニティを駆使して同じ文化を共有する集団の中で活動していれば、次の相手をみつけるのは難しいことではなかったのかもしれない。
別れた翌日には新しい魚男と写った写真をアップしていた猛者たちを、勝手に「高性能魚探」とか呼んでいたのを思い出したけれど、きっと大事なのは探知機そのものの性能ではない。泳ぐべき海を見極めることだったのだ。

タブーの忌避手段としての「相方」

集団語というものは、調べれば調べるほど人間社会のダークマターと関連が深いことがわかってくる。
分かりやすい例を挙げるなら、渦中の中古車販売業ビッグ―モーター社。
かれらは街路樹が茂っていると陳列した車が通りから見えなくなって邪魔なので、勝手に木を伐ったり除草剤を撒いたりしていたことがわかっている。
で、そのことを社内で「環境整備」と呼んで習慣化していた。



同業のグッドスピード社は、本当はまだ客先に届けていない車を無理矢理カウントするために、「納車テイ」という言葉を使って売り上げに計上していた。
納車、っていうテイにしただけだから、ウソじゃないよね。
お金はちゃんともらったんだし。ちょっと前倒ししただけだし。

三菱伸銅(現:三菱マテリアル)社は、検査基準に満たない製品の数値を書き換えることを、「丸目処理」と呼んで日常的にまるめ、、、ていた。

相方プレイは不正じゃないし、誰にも咎められることじゃない。
そこは10年以上、相方研究をしてきた者として断言しておきたい。
でも相方界の始祖たちが「相方」と言い始めたとき、かれらはきっと、その言葉の持つ曖昧性を頼りにしたんじゃないだろうか。
彼らの中に、何かをまるめ、、、たい心理は存在したのではないだろうか。
たとえば、結婚しているから彼女を作るわけにはいかないけど、相方っていうテイだったらOKじゃん、って罪悪感をやわらげることはできそうだ。
あるいは「ネットの恋人だと説明するのは何だか恥ずかしい」「気持ち悪いって拒絶されたくない」、そんなIT時代のセンシティビティを、相方という呼び名はやさしく包み込んでくれたんじゃないだろうか。




一見まったく色気のないこの呼称は、ネトゲ世界で待ち合わせしてデートしたり、おそろコーデしたり、一日中どこチャで愛を囁き合ったり、しまいにはとてもじゃないがここに書けないようなことをしたり、といった相方の無限大の可能性を完全に隠蔽している。
「彼は私の彼氏です」と言われれば、具体的な関係性がわかる。
しかし「彼は私の相方です」と紹介されたとき、かれらがどんな付き合い方をしているのかは、それのみでは多くが隠されたままなのだ。
何気ないことばの奥に秘められた「ちょっと人には言いにくい」関係性は、わかる人にはわかればいいし、わからないならそれでいい。
アストルティアにおいて、かつては「ドラ彼」「ドラカノ」という呼称が使われていたこともあった。
けれどいつしかそれらは淘汰され、より多様なパートナーの在り方を包摂する「相方」という語だけが今も生きているのは、この言葉の持つ底知れない多義的なキャパシティを、ほかでもない私たちが選んだからではないだろうか。
相方という呼称はその曖昧と寛大と自由でもって、四半世紀にわたり、仮想空間の恋人たちを護ってきたのではないかと思う。

未婚と既婚、ネットとリアル、距離や年齢差、はたまた性差。
そんな事情の一切を、「相方」は広いふところで受け容れる。
でも諸君、気をつけた方がいい。
あなたの彼は「相方」という言葉を、どんな意味で使っているのかわからないのだから。


参考文献
・広辞苑第七版 2017年 岩波書店
・「社会言語学のしくみ」町田健/中井精一 2005年 研究社
・「集団語辞典」米川明彦 2000年 東京堂出版

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