六本木にあるルイーダの酒場、マキ学長はもう5回くらいいったんですが、とってもたのしいですね。
うふふ
ドラクエナイズされたメニューはどれもすごく凝ってて、そのくせ味もかなり美味しいのだ。
ももんじゃのアイストリュフ830ゴールド
(画像引用:ルイーダの酒場公式サイト)
あと、店員さんがいちいちドラクエ詳しいのもいいですよねえ…。
冬場、コートを着て行ったりすると、「防具をおあずかりしましょうか?」とか聞いてくれるあたりとってもグッドー。
さて、ルイーダの酒場に行くと、堀井雄二さんの格言「人生はロールプレイング」が書かれたサイン色紙が飾ってあるので、訪れるたびに友人たちと「オオーっほんものだー」つって、ひざまずいて礼拝をおこないます。
ハハーッ
ん?
「人生はロールプレイング」ってどういう意味よ。
わかるようで、考えようとすると、よくわからんな。
ルイーダ行くたびにいつも引っかかっていたんですが、ご飯の美味しさと、ドラクエトークの楽しさに、そんなことすっかり忘れてご帰宅するのがいつものぱたーん!
なので、今日ふいに思い出したついでに、学長なりの解釈を書いておこうかなって。
ではまず、ロールプレイということばの意味を確認してみたいと思います。
広辞苑にはロール・プレーイングという、なんでそこを伸ばしたのか?という謎の表記で書かれていました。
ロール・プレーイング
「ある場面を設定し、定められた役割を演じること。学習・心理療法などで行う。」
(広辞苑2008年第六版)
わかりやすくするために、例を考えてみましょう。
社会人の場合、もっともなじみがあるロールプレイングは、新入社員研修ではないでしょうか。
Roleは「役割」という意味で、Playはこの場合「遊ぶ」ではなく、「演じる」と訳します。
コンビニの新人バイトAが店員の役、バイトBがお客さん役を演じて、レジでの接客を学ぶ場面なんかを想像すると分かりやすいですね。
ロールプレイ教育は、いらっしゃいませのご挨拶から商品を渡しお金を受け取り、お見送りするところまでの一連の動きを体に叩き込むことができ、さらに社員の客観性を高め課題発見を促してうんちゃらかんちゃら……、という効能があるといわれています。
なるほど。
では試しに、この心理学や教育学で言うところのロール・プレイという語を軸にして「人生はロールプレイング」を解釈してみましょう。
すると、
「人生とは、それぞれに与えられた役割…たとえば職業とか、妻や夫、親、といった社会的役割をきちんとこなすことですよ」
と、こんな感じの解釈になりましょうか。
でもちょっとまって、こんなの怖い。
すごくリアルで、説教臭くて、とにかくすごくドラクエぽくない。
堀井さんがこんなつまんないこと言うわけないよ!
モヤッとしてきちゃったじゃないですか!
どうしてくれるんですか学長……!
まあまあ、これはこれでいったん置いておきましょう。
なんで置いておくのかっていうと、これにゲームという単語をくっつけて、ロールプレイングゲームにした途端、話ががらっと変わるからです。
ロール・プレーイング・ゲーム
「ゲームソフトの一種。ゲームをする人が、ゲームの中の主人公になって、与えられた課題を解決してゆくゲーム。」
(広辞苑2008年第六版)
うん、いっきに剣と魔法のファンタジー風味が漂い始めました。
単にロールプレイというとき、role-play の和訳はさきほどの「定められた役割を演じること」という学術用語になります。
しかし、ここに「ゲーム」という語が加わり ロールプレイングゲーム という言葉に変化すると、その意味もがらりと変わり、role-playは「何者かになりきって演じること、転じて、その人の人生を生きること」となります。
堀井雄二さんが「人生はロールプレイング」といったときの解釈にはおそらくこちらを当てるのが正しく、その意味するところは
「他の誰の真似でもない、自分自身を主人公とした人生を、能動的に生きよう」
といったところでしょうか。
ふむなるほど、納得です。
あーすっきりした!
けど。
「うん!そうだよね!たった一度の自分だけの人生だもんね!生きたいように生きなくっちゃねっ!」ってそりゃ思うけどさあ。
じゃあいったい世界のどれだけの人が、自分だけの人生たるRPGを見つけ出し、勇気と知恵をもって自分の道を選んで生きることができているだろう?
(画像引用:Wikipedia 堀井雄二)
ここ数年、DQ30周年キャンペーンなどで堀井雄二さんがメディアに出る頻度がすごく増えたけれど、彼はいつどこにいても、めちゃくちゃいい笑顔で笑っている。
あれは自分の生業を心から楽しんでいる人の笑顔、自分の生きざまに納得がいっている人の表情だとわたしは思う。
堀井さんほど生き生きと自分の仕事を楽しみ、それを通じて社会に関わることができている人を、わたしはこれまでに見たことがない。
それは堀井さんが自分の仕事をいつも自分の真正面に置き、いつも自分の尺度で測り、借り物でない自分の実感で語り、いろんなことを決めてきたからではないだろうか。
そして堀井さんがそんな風に生きられるのは、彼がめちゃくちゃに頭がいいからとか、コミュ力が高いからとか、とにかく途方もない才能に恵まれた特別な人間だからだ、と思いがちだけど、まあそれもあるとは思うけどきっとそれだけじゃない。
振り返ってみればわたしたちはとかく誰かの通った道を同じようになぞる日々を送りたがるし、自分の選択で何かを決めることをすごく怖がる。
ご飯をどの店で食べるか決めるときにはネットの口コミを見て先人の経験談にゆだねるし、アストルティアという仮想世界にいてさえ、頭のよい誰かが最適な構成と戦法を発見して、さらに発信力の高い誰かがそれを共有し一般化してくれるまで、お金を出して装備を買おうともしない。
損をしたくないから。
でもこの、損をしたくない、というのは人間歴が長くなってくると誰にでも芽生える心理で、自分の身を傷つけず、時間もお金もできるだけ使わずにベストな方法をチョイスしたいと思うのは誰でも当たり前なのだ。
だから別にこれが悪いってわけじゃない。
それが普通の人間なんだと思う。
なんだけど、自分のRPGを生きる人は、こういう当たり前のことをやらない。
堀井さんのような人はたぶん、損をいとわない。
というか、試行錯誤の中でいくらかのお金を失い、時間が経過し、身体が疲労することを、損だ、と思う感覚そのものを欠いているのだと思う。
すこしの損もしたくない、自分の時間と労力を使って試行錯誤なんてしたくない。
そんな欲深きわれわれアストルティア人が、何の見返りもなく自分の命を投げ出して世界の平和を守る勇者になんて、なれるわけがない。
だから、ドラクエ10でわたしたちが操る主人公が、勇者でなく「なんかそのへんにいたすごく不運な人」、というポジションに収まっているのは、なるほど大正解だなあと思うのです、わたしは。
参考サイト
● 早稲田ウィークリー 「2016.8.9堀井雄二インタビュー」
● Wikipedia「ロールプレイングゲーム」
参考文献
● マキさんちにあった英和辞典(学研)
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