人は、エル子になれる。

 紙袋を両手にさげてルンルンで家に帰った土曜日の午後、買った洋服と手持ちのなにやらを合わせて自宅を歩き回り、鏡の前でミリオンスマイルを決める一人ファッションショーを数年ぶりにやった。
 買ってきたのはスカート2着だからそんなに散財したわけでもないけれど、気温も湿度もぐんと高くなった今日はサンダルも欲しい気がして、そしたら数年新調していないバッグを購入しても許される気がして、コロナ以来、本当に久しく起動していなかった私のファッション的物欲が強化ガジェット零式に乗った。
 結局スカートしか買わなかったけどさんざん東京を歩き回ってHPを消費し、自粛中は本当にユニクロと無印と近所の商店街にしか投資してこなかったお金を「一括払いで!」とゴールドシャワーするのはなんと心地よいことか。近年まれにみる量のドーパミンが脳の隅々までめぐり、久しぶりに手にした紙袋は異様に重く感じ、「買ってやった!!」という清々しい気分にしばし浸った。
 ひさびさのファッションショーもドーパミンの暴走の結果である。
 昔はギャル雑誌の読者モデルの真似をして、友達と買い物に行った後、大量の服や靴を床に並べてダブルピースで写真を撮り合う「戦利品パーティ」を毎回やっていた。
 思い返してみると、いかに写真にバランスよく品物を収めるかを念頭に、全身コーディネート分の買い物をあえてしていたような気さえする。あれは当時流の、今でいうSNS映え狙いみたいな心理状態だったのかもしれない。写真の中の、眉毛の下辺に触れんばかりの長いまつ毛をねつ造して限界まで瞳を見開いた私は本当に楽しそうで、TikTokで踊る女の子たちと同じ顔をしている。


(イメージです)

 ところでゆえあって私は最近、地下アイドルについて研究している。
 その、ゆえを説明すると少し長いのだが、じつは今住んでいるマンションの隣人達がいわゆる地下アイドル(の男性版)を生業としているようで、彼らが居室にファンか何かわからないけれど友人を呼び、連日ライブ(あるいは撮影会?)を開催している様子なのだ。
 うるさかったり、謎のコゲ臭い匂いがしてきたり、というご近所トラブル的な事情ももちろんある。だがやはりそこは私、ちょっと頭がどうかしているので、メンズ地下アイドルたちの日常に肉迫したいという欲望が勝ってしまう。暇さえあれば「チェキバック」「コンカフェ」「プリ同行」などの専門用語をぐぐっており、検索履歴を見ているだけでも自分が短期間でかなり知識をつけたことを実感する。
 とりあえず今は都内の地下ライブハウスのタイムテーブルを片っ端から調べている。目標は彼らの「アー写」(アーティスト写真)を探し当てること。みんな同じ顔すぎて区別がつくかどうかはあやしいが。


(私のサブ魚によるイメージです)

 隣人たちと直接エンカウントしたことはまだ無いが、遠目で見ても相当メイクが濃いのは見てとれる。メンバー(イントネーションは平坦に)は4~5名で、全員が顔をかなり明るく塗装しているので年齢は完全に不詳である。
 樹上性の爬虫類のごとく日によって髪色が変化しているが、だいたい黄色が多い。アストルティアの美容院で染められるような、クレイとかサンゴールドといった今風ニュアンスカラーでないところは個人的に好感が持てる。
 あれは黄色。期限切れの幕の内弁当の隅でご飯に色移りした沢庵の黄色。

 地下アイドル達の世界を探索していてふしぎに思ったのは、彼ら彼女らはなぜ懸命に顔や姿を別人のように変貌させようとするのだろう、ということだった。
 10代や20代のアイドル達がSNSに上げる画像はだいたい特殊処理がされているけれど、ときどきあえて素顔をアップしている人もいる。加工なんかしなくても十分可愛いじゃないか、という人も大勢いる。そりゃメジャーじゃなくてもステージに上がるくらいだし、そもそもの若さが美しい。なのになぜ皆、もとの自分じゃだめなのか。
 ここ最近ずっとそのことを考え、調べぬいた結果、「もとの自分じゃだめなのか」という私の疑問自体がおそらく的外れなのだろう、という結論に行き着いた。
 かれらが瞳を大きくしたり、顎をとがらせたり、髪を沢庵色にすることは、そもそも自己否定なのだろうか。
 コンプレックスのある部分を修正できたらいいのに、という気持ちはもちろんあるだろう。
 けれど彼らの行動や言動を研究して、もとの自分と新しい自分はちゃんと併存しているような印象を私は持った。かれらはとても自由に、いくつもの自分を演じ分けているだけではないのだろうか。どの自分も排除していないし、どの自分も矛盾なくかれらのなかに同居しているのではないだろうか。
 RPG風にいえば、学校やバイトに行っている自分はメインキャラ。地下アイドルをしている自分はサブキャラ。メインには日常的に着慣れたドレアがあり、サブには少し冒険色の強いドレアを着せる。
 それはまさに私もゲームの中で日常的にしていることではないのか。同時にいくつものRPGを進行する、という自己観は、2020年代的なアイデンティティのありかたなのかもしれない。
 私も私であることに多少の不満はあるが、でもダメな自分がおもしろいと思うこともある。それでいてエル子になるのは楽しい。
 私は私であると同時に、やっぱりエル子でもありたい。

 ドラゴンクエストⅦのキャッチコピーは堀井雄二氏がみずから書いた「人は、誰かになれる」である。
 この言葉が何を意味するのかは明かされていないが、私個人の解釈はこうだ。
「自分では何のとりえもなく意味がないと思える人生でも、その人でなければ動かせなかった何かがある。ただの漁師の息子が遺跡でいたずらしているうちに世界を救ったように」。
 地下アイドルの歌は誰かの心を潤すのかもしれないし、こうして私が気まぐれに書く文章も誰かが読んでくれるのかもしれない。
 平凡な存在でも、ほかの誰かが介在することで、人は、誰かになれるのかもしれない。
 Ⅶには転職しなければ覚えない呪文があったり、いったんやめた職に戻ってはじめて覚える特技があったりという職歴システムがあった。そのことを考えると、「いろんな経験を経て、他の誰とも違う、世界で一人だけの誰かになれる」という意味にも読めてくる。
 顔も名まえもいっそ人格も変えて、いつでも好きなときに好きなだけ違う自分になれたらどんなにいいだろう。
 もし本当に100年も人生があるのなら、そういう変幻自在なスキルを持っているほうが、きっと飽きなくて楽しい。そう考えるとアストルティアは理想的な場所だ。
 私も、おじさんも、キッズも、隔てなく等しく、誰に縛られることもなく、人は、エル子になれる。

〈参考資料〉
早稲田ウィークリー堀井雄二インタビュー 2016年8月
「キャッチコピー」ドラゴンクエスト大辞典を作ろうぜ! 2019年7月

 


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