メタトルティアに生きて



私は私自身のやりたいように生き、こうやって好き放題に文章を書いて、私自身の脳がえらんだ言葉を書きつけていると思っている。
私は自分のやりたいことをちゃんと知っていて、そのうえでやっていいことかどうか自分で決めているし、ほかのだれにそうしなさいと言われて食べたり寝たりしているのではないと信じている。

けれどもし、私という存在自体が創り物だったらどうしよう。
今だって、自分の自由で書いていると思っているこの文章が、ほかの何かの力によって書かされているものだったらどうしよう。
もしもこの世界ぜんたいが、正体の見えない、一個体があらがうことのできない、なにかべつの巨大な力によって調定された被造物だったらどうしよう。
もとより私は自分の頭が想像力という範疇をとうに超えておかしいことを承知している。
それでも自分のいる世界が、たとえばあのサイコ映画「トゥルーマン・ショー」のような捏造物ではないと、誰がいいきれるだろう。

そんな詮ない思索に沈んだのは、レンダーシアを旅した8年前のことだった。
勇者姫をさがして方々を旅したレンダーシアは、じつは大陸まるごとが芸術をたしなむ大魔王の作品で、そこに生きる人々も、いわば大魔王の趣味と気まぐれが生み出した ”キャスト” にすぎなかった。
自分は人間として生まれたのではなく、物として製造されたのだということを知った偽レンダーシアの人々は、嘆き、怒り、自棄になって自分たちの存在を呪った。



もっとも、ファンタジーもののゲームやエンタメにおいて、偽りの世界と真の世界というのは決して珍しい主題ではない。ドラゴンクエストシリーズにおいても、過去作Ⅵ、Ⅶは主人公が現実と虚構を行き来することに物語の根幹があった。
そんな今や使い古しと言ってもよい設定にもかかわらず、私が偽レンダーシアの宿命にリアルに怯えたのは、本作ドラクエXがオンラインゲームだからだろうか。あたかも主人公に憑依するかたちでアストルティアを旅する私は、そこに起こる歓びや悲痛を、より自分の肌に近いところで感じているのかもしれない。

偽りのレンダーシアを構成する人々の事情はさまざまだ。かつて戦争で魔物を酷使してきたアラハギーロでは、人間と魔物がそっくり入れ替わる世界線が現れた。
セレドに出現したのは死後の世界。事故で命を落としてなお、子どもたちが自分たちの力だけで生きようとしている。
どちらも悲惨な歴史をともなう点は同じだが、主人公の助けもあって新しい希望を見つけ、悲しくも前向きなエネルギーが生まれているように見える。

かわいそうだったのはグランゼドーラの人びとだ。自分たちが偽の勇者を礼讃するための木偶にすぎなかったと悟った人びとは、ほんものの勇者姫がめざめても、大魔王その人が倒されたあとも、なお自分の出自を呪いつづけた。



かわいそうだ、と書いたが、8年前の当初、じつは私はそう思っていなかった。
だって大魔王が死んだあとも、あなたは別に消滅したりせず、生きているじゃないですか。自分の生まれにいつまでもネガティブな意味づけして、うじうじし続けるなんて不毛じゃないですか。ただ生きればいいじゃないですか。
ほら星野源も言ってたでしょ。「意味なんかないさ、暮らしがあるだけ」。
私もそう思っていたから。

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(グランゼドーラ城の従者の孫娘ノア。当初、私も彼女と同じで、落胆する国民の気持ちがいまいちわからなかった。)


しかし数年経って、私のグランゼドーラ人に対する考えは大きく変化した。それはコロナ禍で仕事や居場所をうしなって苦しむ人々を間近に見た経験がそうさせたのかもしれないし、単に私が年をとったからなのかもしれない。私は、グランゼドーラ人に同情を寄せるようになった。

仮に、私や私の住む世界が、なんや正体不明の闇の結社とか、影の権力者とか、あるいはマッドサイエンティストが創りだした虚構だったとしても、私は、「うーん、まあそうかもね、なんかそんなこともあるかもって、昔から何となく思ってたわ」って受け容れちゃいそうな気がする。
グランゼドーラ国民みたいに、俺たち創られてた、騙されてた、いいように使われてた、もう生きてる意味無い!って私は大騒ぎしないような気がする。
それは私が、きっとある程度恵まれた境遇に配された被造者だからだ。
たいした病気もせず育ち、我が儘に受けたい教育を受け、いたずらに知識と内省を貪って、好きなだけドラクエをし、ついには変な論考もどきを世に出すなどという愚行すら叶えた。

そんな幸運な ”キャスト” である私には、だから「自分の不遇は自分以外の何者かのせいである」という発想がないのだ。よく話題にのぼる陰謀論や、コロナ不存在論とは、要するに「自分のいる世界を無理矢理捻じ曲げてでも、自分の不遇を解消したい」という一種の悲痛な祈りなのだろうと思う。
自分の人生を自分の思うままに、自分の責任でえらぶことができないとき、他の何かのせいにしたい、できれば個人の力のおよばない壮大な何かのせいにしたい。それは人として、無理からぬ心理なのかもしれないと思うようになったのである。

グランゼドーラに戻ろう。
自分たちが創り物だと知った人びとはもうとっくに心身耗弱で、心配して話しかけた私に、うわごとのように問うてくる。



答えてあげたいと思う。
大丈夫だよと。これからは自分の行きたいところに歩いていっていいんだよと。
でも私は、今や六大陸のみならず魔界や天上界すらも自在に行き来し、剣も魔法も無双に使いこなす世界最強のスーパーヒーローだ。いくら同情のきもちを持って彼らに接したとしても、持たざる者の悲鳴に本当の意味で共鳴することなど、永遠にできないのかもしれない。

この偽レンダーシアに光をひとすじ、照らすかと思えた物語が2年前にはじまった。破壊神シドーが登場した破界編である。
物語のおわりに、天使ファビエルが、なんかやたらかっこつけてこう言った。
「何もかも偽物の世界でたった一つ、そこに生きる人びとの魂だけは本物でした」。



何言ってんだよ。きれいにまとめたと思ってんじゃねーよ。ファビエルだっていわば世界の調定者のひとりである天使、だからそれは持てる者の戯言にすぎぬと私は思ってしまった。
物として生まれ、いや生まれさせられたにもかかわらず、傷つきやすい本物の魂をあたえられた人間のかなしみがお前にわかってたまるか。それをずっとすり減らして生きることを強いられた人間の気持ちが、天使様にわかってたまるか。
だって、マデサゴーラの娯楽のために創られた人々の生活はいまでも変わらずそこにある。
精神的支柱だった勇者姫を喪ったグランゼドーラ人、もとの身体と記憶をなくしたアラハギーロ人、二度と親に抱きしめられることのないセレドの子どもたち。
私が何度強敵をやぶっても、幾度世界を守ったとしても、かれらの日常は何ら変わることなく続いていく。
そのことを思うと8年経ったいまも、私はせつない気持ちになる。