「泣ける」のたくらみ



電車の中で「号泣書店員続出!この秋、いちばんの感動実話!」なんちゅうコピーがついた新刊小説の広告がぶらさがっていれば、ウワァ出やがった!、と思うし、「観終わった後、涙が止まらず、一晩中泣きました。この映画を見せてくれた出演者、監督、スタッフのみなさんに感謝しかありません」なんていう有名人のレビューが添えられた映画広告を見つけようものなら「涙が止まらないなんてふつうじゃないよ。眼科か神経科に行けば」と、さもしい私はつい心の中で毒づいてしまう。
そしてたいてい、こんなふうに作品そのものの素晴らしさではなく、催涙効果ばかりが宣伝されているのをみると、観たり読んだりする気は起きない。

泣ける小説、泣ける映画、泣ける曲。
食わず嫌いをせずに手に取ってみれば、きっと素晴らしい作品もあるのだろう。でも私は、世の中で粗製乱造される「泣ける系」を、どうにも素直に受け止めることができない。

そもそも、泣ける、って何だ。
何かが心につよく触れたとき、そうしようとも思わないのに自然と涙があふれてしまう、とめどもない状態のことを「泣ける」っていうんじゃないのか。中学の授業で習った記憶だと、「自発」。
自分でもなんでかわからないけど、ひとりでに泣かされてしまうっていうかさ、何ていうの、自律神経の制御権を、もののあはれとか、いとをかしの陣営に全面奉還した感じ、っていうのが私の思っていた「泣ける」。

それが、どうも最近の「泣ける」はそういう意味じゃないらしいと思う。文法の意味的には古語寄りの「自発」より「可能」に近くて、「この映画を観れば泣くことができる」とか、「あの動画のあのシーンを見たら泣くことが可能だ」っていうふうに私には聞こえる。

つまり、現生人類は何かこういう触媒がないと、泣くことができなくなっちゃったんだ。そしてそれは、へえ、泣けなくなっちゃったのね残念、で済む話ではないらしく、私たちは、お金を払って触媒を購入してまで、泣くことを欲しているらしい。

「泣ける系」が書店や映画館に溢れるようになったのは、人々に、涙を流したい、流さずにはおれぬというわりと切迫したニーズがあるからじゃないのか。いつの頃からか「泣く」ことは、夕暮れの雲や夜半の月がもたらす感傷のせつない昂ぶりではなくて、リアルこの上ない消費行動のひとつになった。


この「泣ける」に、正面からたたかいを挑んで床ペロした経験が私にはある。
数年前、スクウェア・エニックスの、それもドラクエシリーズ制作チームが、シナリオライターを募集していたときのこと。
そのときも私はいちおう定職についていたし、シナリオライターになりたいとも、またなれるとも思っていなかったが、文章を書いて誰かがよろこんでくれることも、そして言わずもがなドラクエも好きなので、勢い込んで募集要項を読んだ。

採用一次試験は、ドラクエシリーズに相応しいショートシナリオを書いてみせよ、というもので、たしか「犬」と「おじいさん」と「星」と「橋」と「屋根」と「道」と「ステテコパンツ」の中から3つ以上の言葉を使ってエピソードを完成させなさい、だった。たしか。
ほかのワードはちょっとうろ覚えのまま書いてしまったけれど、「ステテコパンツ」があったのは間違いない。

一見、難題とは思わなかった。
仮にもシナリオで食べていこうという者なら、きっと思い出のストックに1つや2つ、否10や20、星やおじいさんに関する「ちょっとイイ話」くらい持っているものだろう。何も難しいことは無い。

ドラクエ通とはいえ若い人には「ステテコパンツ」の扱いは難しいかもしれないから、これはひとかたならぬドラクエ愛と遍歴を問う難条件、といえるかもしれないけど、まあわからなければ他のワードを選べばいいだけなので、どうということも無い。

ライターに応募するかどうかは別として、お題のシナリオを1つ書いてみようかと前のめりになっていた私は、課題の要件の最後の1つを見て椅子から落ちそうになった。

“上記の指定語を用いた、「泣ける話」を提出してください。”

さいしょに書いたとおり私は「泣ける」にアナフィラキシーを起こすので、天下のスクエニ様が、しかもドラクエブランドともあろうものが手軽な涙の消費ブームに乗っかるのか、と身の程知らずの怒りさえ覚えた。

だって私が生きてきて、まだ別に長い人生でもないけどそれなりに努力したりうまく生きようとじたばたしてきた人生の中で、最古の忘れがたい涙は、本当だったら一刻も早く忘れ去りたい涙を泣いてしまったときの涙だ。
それからも幾度か流した、許せなかったり、狂わんばかりに悔いたり、逃げ回ったり、誰かを羨んだり、そんな耐え難さの中で吠えたときの涙だけが、今でも私をゆるさない。



けれどきっと、この採用試験や、世の人たちが求める「泣ける」は、そんなところにはないんだろう。
消費者が欲しがるのは、通り雨が過ぎて雲がすべて消え去った空を泣き笑いで眺めるような、すごく正方向の、爽快な体験なんだ。
「涙が止まりませんでした」なんて言いながら映画館の帰りに岩盤浴でも行ってビール飲んで帰れるような、後味のいい涙なんだ。

まあこのように、ゴタゴタと言い訳を考えることに時間を費やしてしまい、やっぱり私はドラクエシナリオライターに応募することができなかった。
私は、たとえばドラクエⅤで息子の前で生きたまま焼かれたパパスとか、Ⅶで老人の死体のために永遠にスープを温め直すエリーとかいったような救いのない場面を好む。
そういう場面でこらえた、鈍痛をともなう涙を、水分にして流せずにいつまでも溜めこむタイプだ。
それは、消費ブームが推奨する健康的な涙とは程遠く、精神衛生上あんまりよろしくないことは自分でもよく分かっている。
だけど私はこれからもきっと、こういう恐怖や取り返しのつかなさ、生の残酷みたいなものの前にいつまでもグズグズと座り込むほうの涙を、すっきりしない方の感動を選ぶのだろう。
まあそれとは別にして、いつかまたドラクエシナリオには挑戦したい。