Ver4.5で研究する「キャラクター・アイデンティティ」

こんばんは学生諸君!
今年のGWも、相も変わらずお出かけすることもなく、じっくりしっとりとドラクエ研究ができて、大変よござんす。

べ…べつに、つよがってなんかないし
マキ学長です。



ほんじつの記事は、ドラクエ10の現時点での最新シナリオ(Ver4.5前期)の重要なシーンについて語りますから、まだおわってないよ~っていう方は、また今度来てくださるも良しということで、ひとつよろしうに。




Ver4.5が公開されて数週間たったある日、わたしはあるプレイヤーさんが公式の提案広場に意見を挙げているのを目にしました。
この投稿は、現在では閲覧できなくなっているので、言い回しが異なっているとは思うのですが、わたしの記憶にある限りではこういうものでした。

「時獄の迷宮で再会を果たしたパドレに対して、主人公があるセリフを口にする場面がある。
私はそれがどうしても受け入れられなかった。
そのセリフは、パドレのほうから主人公に対して『言ってほしい』と発言を促したものだ。
直後、主人公には選択肢が与えられたので、その言葉を口にせずに話を進めることもできるのかと思ったが、できなかった。
だけどうしてもそのセリフを口にすることに耐えられず、そこでゲームの電源を切ってしまった私は、それからドラクエXにログインすることができずにいる。」



Ver4.5のクライマックスで、5000年前に赤ん坊だったパドレとマローネの子が、主人公と同一人物であることがついに明らかになります。
そしてパドレは時獄の迷宮をさまよった果てにふたたびめぐり合うことができた主人公に、自分を父と呼んでみてほしいと頼みました。

「お父さん」

ここ。
ここです。
提案した彼(彼女)は、パドレのことをどうしても「お父さん」と呼ぶことに堪えられなかった…というのが今回のポイントです。
主人公に、その人格を特定するような言動をさせないでほしい。
今まで積み上げてきた自分自身の歴史を否定するような行動をさせないでほしい、というのがこの提案の趣意と思われます。

この投稿は、Twitterで拡散されていたので、当然、たくさんのユーザーのあいだで色んな反応がありました。
で、あいかわらず変態なわたしの感想は…

ワァオ 超おもしろい!

です。

「どうしてもこのセリフが許せない」「こんなことを言わせないでほしい」というのは、言ってみれば個々人の感覚的な問題です。
ある本を読んで、人それぞれ感想が違うように、このパドレとの親子の語らいについて「感動した」という人もいれば、「うーん、微妙」と思った人もいたことでしょう。
だけどこの提案者は、こんなにも高度に感覚的な問題について運営陣に物申すほどに、自キャラたる主人公に、強く感情移入していたということになるのではないでしょうか。
そう考えてみると、問題に新たな切り口が生まれるような気がしてきます。



わたしは、「MMORPGをやっているプレイヤーが、どれくらい自分のキャラに憑依するのか」「どれくらい強く、キャラと自分を同一視しているのか」ということにつよい関心を寄せています。
以前、「感情移入度のちがいによって、プレイヤーがアストルティアで使う一人称にも差異があるのではないか?」という記事を書いたこともありました(「自キャラ同一性と一人称の研究」)。

この記事の時と同じように、「プレイヤー個人が、自分のキャラクターに自己を重ね合わせる性質」を、「自キャラ同一性」と呼ぶことにして、今日も話を進めていきたいと思います。

今回の提案者は、いわば物凄く自キャラ同一性の強い人なのではないでしょうか。
彼(彼女)にしてみれば、主人公は、サービス開始から7年近くの間、自分とぴったり重なり合うように生きてきた、もう一人の自分なのです。
自分の行きたい場所へ行き、着たい服を着て、自分に合う友人を選び、信頼し信頼されたり、喧嘩別れをしたりしながら、自分自身=画面上のキャラクターとして、7年間生きてきました。

けれど、
「お父さん」。

パドレの願いに応じたとはいえ、それは主人公が初めて、プレイヤーの意思を離れた言葉を発した瞬間でした。
彼(彼女)にしてみればそれは、突然、自分とキャラが無理やり引き剥がされた瞬間のように感じられたのかもしれません。



ドラゴンクエストシリーズは伝統的に、プレイヤー自身が主人公になったような気分になることを促し、自キャラ同一性を強める工夫がなされてきた作品だと思っています。

第一に、ドラゴンクエストの主人公は、みずから言葉を発することがありませんでした。
何かを尋ねられたり頼まれたりしたときに、選択肢を選ぶようなことはあるけれど、基本的にプレイヤーは「はい・いいえ」を選ぶだけです。

その答えが具体的にどのような言葉で肉付けされ、どんな口調で相手に語られたかをセリフとして目にすることがないので、主人公の人柄をうかがい知る材料が乏しいのです。
すると、プレイヤー…とくに「自キャラ同一性」が強い人は、「自分だったらどんな言葉ではいと伝えるか」を無意識に思い浮かべながらおはなしをすすめます。
「もしも自分が勇者で、いまこの場にいたら、どんな言葉で王様のお願いを承諾するか。許しを請うカンダタにどんな言葉をかけて逃がしてやるか。」そんな想像を繰り返すことで、だんだんとキャラクターに乗り移ったかのような感覚になっていくと思われます。

第二に、主人公に最初からきまった名前がついているということがない、というのもドラクエシリーズの特徴だと思います。
たとえばファイナルファンタジーシリーズは、最初期とオンライン化した近年の作品を除き、ほとんどのナンバリング作品において主人公に固有の名前と明確な設定がついていました。


ファイナルファンタジーⅥのメインキャラクター、ロック。
画像引用:an.sqexm.ne

こうすると、プレイヤーは、主人公に乗り移るというよりも、自分とは別個の存在が生きて動いているさまを追いかけ、客観的に映画を見ているような立ち位置からプレイすることになりそうです。

対してドラクエシリーズはⅠから一貫して、主人公に好きな名前をつけられるスタイルを採用していますね。
このことからも、ドラクエにおいては伝統的に、プレイヤーとキャラクターを強く結びつけて、リアルな冒険を体感してもらいたいとの狙いがあるように思えます。

しかし、しかしだ。
2019年3月、ドラゴンクエストX、Ver4.5。
ここへきて主人公はついに口を開き、「お父さん」という言葉をみずからしゃべった。
このできごとが、サービス開始以降7年の間、自キャラとの分かちがたい同一性をもってあゆんできたプレイヤー自身のアイデンティティと激しく衝突した…。
もしもこの衝突が、今回の「お父さんと呼びたくないよ提案」の訴えるところなのだとしたら、その感覚は少し理解できる気がするのですが、みなさんはどうでしょうか。



そして、この提案のことを考えていてわたくし、ちょいと思い出したエピソードがあるんですよね。
ドラクエとは全く関係がないのですが、問題の根っこにおいては、おなじことが起こっているような気がして興味深いので、ちょっと書いてみたいと思います。


https://youtu.be/tm-e6sqjXY0

それは2007年に公開された「クローズド・ノート」という映画にまつわるエピソードです。
内容としては、亡くなった昔の恋人を忘れられないリュウ(伊勢谷友介)と、彼に思いを寄せる女子大生カエ(沢尻エリカ)のラブストーリーでした。

終盤、カエがリュウに思いを告白する場面の台詞で「私じゃダメですか?」というのがあるのですが、沢尻さんは、「私じゃダメですか?」なんて、私が彼女だったらそんなこと言わない、と監督にイチャモンをつけ…おっと熱く議論をしたそうです。

「私だったらこんな言葉は口にしない。」
それこそ感覚的な問題だし、脚本家が作った流れにのっとり、監督の指揮のもと作品を完成させていくのが彼女の仕事のはず。
だけどそんなことはもう沢尻さんも重々承知の上で、どうしても魂がそれを認めなくて、今ではもう私自身がカエだから、「私じゃダメですか?」なんて言葉は私の腹から出てこない。そんな嘘を言いたくない…!
っていうことだったんじゃないかなとわたしは思うんですね。

女優・俳優という職業の方々は、長い間撮影をしていると、役にのめりこみすぎて自分が誰だかよくわからなくなったり、情緒不安定になったりすることがあるとよく聞きます。
自分が役を演じているのか、役が自分に同化してしまったのか、もはやわからなくなるというのはまさに病的なレベルで「自キャラ同一性」が発動している状態といえるのではないでしょうか。

「私じゃダメですか?」なんて、カエは絶対に言わない。
「沢尻さんの中に生きているカエ」と、「周りが思うカエ」との衝突が、沢尻さんをしてそう言わしめたのだとしたら…。
今回の「パドレお父さん事案」とも通じる部分がありそうだなあ、と、わたしは思うのです。


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