「慣れ」と「飽き」のあいだで

ゆうべ、最寄り駅から商店街を通り抜けて帰宅するときに、70代くらいの女性とすれ違いました。
女性は、反対方向から歩いてきたわたしとすれ違う直前、はっとしたような顔をして、あごからマスクをずらし上げました。
はやり病が蔓延する前だったら、すれ違いざまに知らないひとがこんな仕草をしたら、「私、くさいのだろうか」とか、「あの女性は、人に顔を見られたくない秘密でもあるのだろうか」と、とにかくネガティブな想像が進んでしまったろうと思います。
でも、病が流行してからは「ああ、注意深くマスクを着け直してくれたんだな」と、うれしい気持ちにすらなる。
ふしぎなものだなあと思います。

とかくわたしたちは、感染しやすいいきものだなあと思います。
感染とは、はやり病の細菌のことではありません。
わたしたちはほんの少し前まで、お店の入り口で手にアルコールをすり込んだり、家族以外の人としゃべるときにマスクをつけたりするような習慣を自分たちが身につけることになるなんて、想像すらしませんでした。
人との距離を取る。人や持ち物をぜったいにさわらない。息をかけない。
すこし前だったら、こんな習慣を徹底している人がもし自分の知り合いにいたら、「なんて、神経質な人なんだ。人をばい菌扱いして。失礼じゃないか」と思ったことでしょう。

だけどいつのまにか、こういう習慣は当たり前のものになりました。
そうやって自分をはやり病からまもることは、すごく「正しいこと」になりました。
わたしたちはすぐに慣れる生き物なんだなあと思いました。
その「慣れ」のすばやさが、日本でのはやり病を最小限にすることに少なからず役立っている、と考えてもよいでしょう。
その傍らで、たとえば「飛沫」という、それまではほとんどの人が使ったことのなかったはずのことばが定着すると、そのことばが持つ、「他人のつばってきたない」という不穏な感じは、急速にわたしたちのあいだに浸透したと思います。
自分にも他人にも、つばがあることは、ずうっと前から何も変わっていないのに、だれもがマスクを着けるようになると、とたんに、わたしたちは「飛沫」の存在を感じるようになりました。

ああ、すごくすごく、わたしたちは染まりやすい。
そんなことを思います。
いろんな流行にすぐ感染して、悲観したり、怒ったり、はげましあったりしている。
ごく短時間に、いろんなことが正義になったり、明日には悪いことになったりする。
まるでわたしたちは、形を持たないアメーバみたいに、自由で、窮屈だ。



しかし、慣れやすいわたしたちは、同時に飽きやすいのかもしれません。
わたしたちは、どうやらすでにこの状況に飽き飽きしています。
ステイホームも、在宅ワークも、最初こそ非日常感がありました。
人々とのしがらみや、会社の支配から離れられる感じがして、ちょっぴりうれしかった。

でもそれが半年も続くとなると、やっぱりわたしたちは外の空気を吸いたくて、ぱーっとお金を使いたくて、やっぱり街へ出てしまいました。
だけどわたしは、それを責められません。
わたしたちが生まれつき、自由でむじゃきで、変態しやすいアメーバであることは、しかたがないと思うからです。



それに、「飽きる」というのは、ひとの脳の、すぐれた機能のうちの一つなのだとも言われています。
たとえば、どんなに好きな食べ物でも、1日3食、続けて食べていれば飽きてしまいます。
もし飽きなければ、同じものばかり食べて栄養が偏り、いつか健康をこわしてしまうでしょう。
だからそれでいいのです。

「慣れる」と「飽きる」、そのとき、わたしたちの中ではどんなことがおこっているのか。
わたしはとても興味を持ちました。
そこでくわしく調べてみると、「飽きる」のメカニズムは、脳内の神経伝達物質であるドーパミンの放出が、だんだん鈍っていくことによって起きると考えられていることがわかりました。

今まで見たこともないすてきな景色を見たり、すごくおいしいものを食べたりしたとき、そして面白いゲームをプレイしたとき、わたしたちの脳内ではドーパミンが活発に放出されます。

このドーパミンがもっとも多く放出され、わたしたちの脳がもっとも刺激を受けるのは、それを初めて体験したときなのだそうです。
その後、同じ刺激を繰り返し受けると、だんだん刺激を弱く感じるようになり、ドーパミンの放出が不活発になるのです。

ドーパミンは、その予測していた程度よりも報酬が大きい時に発動する。
そんなふうに考えられているそうです。
だから、「もうこの刺激は知っているよ、どれくらいの楽しさなのか、予測できているよ」という刺激に対しては、わたしたちの脳はもうあんまり感動しない。

そして、大きな刺激は、いいものでも、悪いものでも、脳にダメージを与えるものなのだそうです。
だからダメージから身を守るために、わたしたちは「飽きる」。
それがよろこびでも、たのしみでも、また怒りやかなしみであっても。
わたしたちは、そのダメージから身を守るために、あらゆることに「飽きる」のだそうです。

さて、例によって唐突に、強引に、わたしはドラクエXの話題にシフトしていくのですけれど。
ときどき、SNSなんかで「ドラクエのモチベーションが下がってきた、どうしよう」と嘆いている人を見ると、思うのです。
余計なお世話だけど、完全に放っといたれや、って感じなんだけど思うのです。
「アメーバよ、それでよいのです。アメーバはそのように生まれてきたことで、漸く生命活動を保っていられるのですから」と。

わたしもそのような、小さき1匹のアメーバとして、さまざまな流行や衰退に翻弄されながらアストルティア7年選手となりました。
平田武闘家も、てなづけガルゴルも、エモカバも相方ブームも逆天井事件も、すべてを柔軟に貪欲に呑み込んで、わたしはすっげえでっかいアメーバになりました。
あ、ただしエル子の姿ね。
いろんなことを知り尽くして巨大化したアメーバは、もう何が起こっても、動じない。

ああ、わたしもついに、ドラクエXに飽きたんだなあ。
もう、ハラハラしたり、必死になることも少なくなってしまったなあ。
そう思って寂しくなる瞬間もあります。
だけど、「飽きたな」と感じてもなお、住み続けたいと思う世界、どうにも居心地の良い世界を、わたしはひとつ、持っている。
それはそれで良いことなんじゃないかな、と思っています。

マキ学長でした。
それでは、また。

【参考資料】
株式会社日立システムズ「人を生かす心理学」
「運動・からだ図解 脳・神経のしくみ」2016年 マイナビ出版